檜書店の思い

「能」がポピュラーなお稽古ごとではなくなった今

檜書店 代表取締役 檜 常正 ©大井成義 / the能ドットコム

かつては謡本とその参考書が経営の軸でした。歴史を振り返ると、能は謡い、仕舞などを稽古する人たちによって、支えられてきました。私たちも謡本の出版を通じて、その人たちのニーズに応えてきたわけです。ところが、この数十年で稽古をする人が非常に減りました。昭和30〜40年(1955年〜65年)頃は習う人も多く、謡本の印刷もピークだったのですが、その頃と比べると、謡本の出る冊数が10分の1まで落ち込んでいます。

能は、お稽古をする方々の支えが必要

一方で、催しは結構多い。昭和の後半から平成バブルの前まで、非常に増えた時代を経て、減少したものの、稽古する人の数に比べると、まだまだ多いです。シーズンになると薪能がいろいろな地域で開催される状況もあります。狂言だけの公演も増えている。そういう意味では、見所のお客様が、能を支えるかたちに変わりつつあるのかも知れません。しかし個人的には、やはり能は、お稽古をする方々の支え抜きでは、今後継続、発展していくのは難しいと考えます。

能楽専門出版社としての役割

これからは、観客が能を支える仕組みをどうサポートするか、を考えなければなりません。最初に能を見るとき、「面白いな」と思ってもらえる参考書が、まず求められます。そこを起点に少しでも興味をもってもらえたら、その先に、能のいろんな面白さ、楽しさを知っていただく本を用意して誘導する、そういう仕掛けが必要だと思います。そして最終的に能への理解を深めていただき、謡い、仕舞のお稽古の方へ入っていただけないか、と思うのです。

お稽古を始めると、謡が面白くなってくる

実際に、お稽古を始めると、謡が面白くなってきますし、自分の稽古した曲は、その情景も、舞台上でもっと見えてきます。私自身、稽古を重ねてわかってきました。能には、もっと奥深くていろいろな楽しみ方があると、漠然とですが、気づいています。そこまで誘導できる商品や書籍を作っていきたいです。

対訳シリーズを能を見に行く方々のスタンダードな手引書に

『対訳で楽しむ 船弁慶』檜書店

「対訳シリーズ」は、その仕掛けのひとつです。能を見るには興味をもてないと難しい。美術的なことに興味のある人なら、装束や能面に興味をもてる。音楽だったら、笛の音、鼓の音といった囃子からも入れる。でも私は、まず何を言っているのかを、「能を知らない」自分が知りたいと思いました。能を見に行く前に、詞章と意味だけでも知ることができたら興味をもてる。最低でも100曲はそろえることで、このシリーズが、能を見に行く方々のスタンダードな手引書にしたい。そうすれば、もっと能に興味をもっていただけるのでは、と期待しています。

出版以外の能楽普及への取り組み

ご近所の神田明神薪能では、事務局のお手伝いをするなど、細かい部分でいろいろなサポートを行っています。また私の祖父の時代には、わんや書店さんや能楽書林さんともども、三役(ワキ方、囃子方、狂言方)の養成に携わる能楽養成会(旧・能楽三役養成会)のお手伝いを、継続して行ってきました。昭和29年(1954年)にスタートしたこの活動は、大変意義深く、戦後の能楽界を支える人材を育てる役割を果たしました。ほぼ30年続いたあとで、国立能楽堂のプログラムとして引き継がれています。

能楽を常に支えつづけるという意味

私たちは、能からは離れることはできません。能を常に支えつづけることが、事業の存続、拡大につながります。本を出す以外の、能を習う人を増やす活動、能を支える活動も大切な取り組みです。

いろいろな活動に携わるなかで、若輩の私なりに大切にしているのは、能の本質から外れないようにしたい、ということです。本質とは何か、そのなかで継続していくために変えなければならない、でも崩してはいけないものは何か、など、多くの難しい問題を含んでいますが、私なりにこれからも考えつづけていきたいと思っています。

能は日本文化を守る仕組み

『まんがで楽しむ能の名曲70番』檜書店

能を一度も見たことがない人は、非常に多いです。能と狂言の区別はおろか、歌舞伎との区別もつかないことさえある。そんな皆さんに、ぜひ一度、舞台を見ていただくための努力をしなければいけないと思います。また、学校教育の場で、能を含む伝統芸能を、子どもたちが学ぶ機会を設けてほしいです。

グローバル化の時代、国際化すればするほど、自国の文化をきちんと教えることが大切ではないでしょうか。日本の音楽や芸能、芸術、精神的な文化を、外に説明できる力が、これから求められると思います。

能面、能装束、能舞台……。能を守ることは、それに付随する日本の文化を守ることにつながります。

謡本は、和紙や絹糸など原材料の製造から、和綴じ製本の細かい技法まで、多くの職人さんたちの手で、支えられています。能が廃れると、謡本も売れなくなり、熟練の手仕事で支えてくださる職人さんの仕事も、立ち行かなくなります。これは、広く強く訴えたいと思います。